君たちはどうハマるか
困った映画だ。見終わってから時間が経つほどにいろいろと思いを巡らせてしまう。この時点でジブリの術中にハマっているのか。
思えば公開まで一切の情報を流さない今回のプロモーションのやり方からして、テクニカルである。そしてそれが見事にハマっているのを確信したのは、初日の劇場が満席だったことからもわかる。
本当に久々に満席の映画館を見た。
プロデューサーの鈴木敏夫的には『君たちはどうハマるか』を考えた末のことだろう。
逆に言えば、鈴木敏夫はこの作品に奇策をろうさなければならないと考えたと言える。無理もない。出だしから1940年代の日本が戦争に向かう描写がふんだんにあるのだから。『風立ちぬ』の悪夢再びなのだ。
正直、この時代の日本描写を食傷気味に感じる客は多い。私もそうだ。『またこの時代の話かよ!』って感じだ。映画冒頭、サイレンが鳴ったとたん、ため息をついてしまった…。
何故ならおっさん世代はもちろんの事、あらゆる世代で、第二次世界大戦での陸軍の暴走と国民の右傾化、教育勅語、新聞のアジテーションは恥ずべきことであると教えられてきたからだ。エンターテインメントの中でそれを許容する深度は浅い。上辺では許容していても、そのじつ、深層心理の中では嫌悪感が拭いきれない。『そうそう、こういう時代だったよね、懐かしい』って思うような70代・80代とは違うのだ。
それでも片渕須直監督の『この世界の片隅に』みたいに、この時代にも現代的な感性や自分の楽しいを育む事はできたし、そういう人達は普通にいたんですよ的な感覚で描かれていれば、救いがあって良かったのだが、今作ではあくまでステレオタイプな描き方をしている。そして現代のポリコレ文化では考えられないような、下男・下女の描写もあるのだ。
そのことから考えて、鈴木敏夫の奇策もやむなしと言える。もし予告編を見ていたら金ローで良いかなって考えてしまう人も多かったのではないだろうか。
だってしかたがないじゃん
この作品は『風立ちぬ』でパンツを脱いだ宮崎駿がまだまだ脱ぎ足りなくて作った映画である。自分語りの話を入れ込むためには、時代設定は動かしにくい。
主人公の眞人もこの頃の普通の子。しかし、出だしから何故か好感が持てない。時代背景も現代とかけ離れているのに、それに輪をかけて庶民ともかけ離れた生活をしている。ようはいいとこの坊っちゃん。眞人=ハヤオなのだから、これは避けて通れないことではあるのだが…。
作中に漂うのは、『だってしかたがないじゃん』って感覚。
だってしかたがないじゃん、戦時中だったし。
だってしかたがないじゃん、俺ん家金持ちだったし。
だってしかたがないじゃん、田舎の子供達とそりが合わなくても。
だってしかたがないじゃん、疎開する時に置き去りにする人達がいても。(これは本編では描かれていない。)
って感じが鼻についてしまう。わざとそれをしているなら、それはもう『風立ちぬ 』でやってたじゃんって言いたい。
作品をエンターテインしたいのなら、そのリアルさはいらない。出だしから感情移入できるキャラクターで行けば良いのだ。そう、みんなパズーの登場を欲していたのだ。
父親はメフィスト、母親には懺悔
眞人の父親は『風立ちぬ』のカプローニ伯爵と同様に“狂気を宿した目”をしている。宮崎駿が書いた当時の絵コンテで” メフィスト・フェレス”と表現していた。
そう、父親は戦争の魔力に取り憑かれた男として描かれている。もりもり働き、家庭でも仕事や政治の話を家族に大いに愚痴る。
家に零戦の風防を駅に置けないからと自宅に大量に持ってくる描写は宮崎駿の実際の体験から描かれている。
実際の父親は『戦争で儲かった』と語っていた事もあったし、戦後は家にアメリカの将校を招いたこともあったらしい。同時代の大人からも少しかけ離れた先進的過ぎたビジネスマンだった。“メフィスト・フェレス”と表現されても仕方ない。
母親に対しては主に不在の記憶が目を引く、全作品を通してたびたび語られるテーマである母親の不在。宮崎自身、甘えたい盛りの幼年期に母親は結核を患い、おんぶをしてもらえなかったという。母親も、してあげたくても結核という病の性質上できなかった。この事を涙ながらに詫びたというエピソードがある。
また、72歳で母親がなくなった時に当時すでに忙しい最中だった宮崎は母親の病床、さらには葬儀にも行けなかったようだ。おそらくその事が彼の心に大きい棘を刺している。このことから母親に対しての懺悔の念を今回の映画で描いているのではないだろうか。葛藤も含めて、しっかり想っていたよって伝えたかったのだ。
じつは日本アニメ界の総力戦。
エンドクレジットを見ていて驚いたのはその協力アニメスタジオの多さ。
スタジオポノック、スタジオ地図、Production I.G、ufotable、スタジオカラー等々。そうそうたるメンツである。上映前の予告編の映画のスタジオは全部協力体制だったてことか。
これを見て改めて解った事は、劇中で出てきた宮崎駿独特の表現、もののけ姫のコダマのようなキャラやポニョやハウルで出てきた不気味な液体表現、ジブリめしでトーストとバター&ジャム、それ以外にも『あっ、ジブリで見た!』って表現の大多数は発案・宮崎駿で、若手の他スタジオのクリエイターに任せていたのでは?ってことだ。
つまり、宮崎駿公認のモノマネ解禁なのである。『はい、皆さん憧れの宮崎駿のモノマネ、公認でやって良いですよ!』ってな感じ。または“ハヤオに恩返ししようプロジェクト”とでも言えばよいか。あまり良い言い方ではないが…。正直この映画に参加するだけで、クリエイターとしてはそうとう箔が付く。そのかわり、宮崎駿との仕事は生半可なことではないのだが。
このことは詳しい座組が分からないので推測の域を出ないのであしからず。
アオサギは高畑勲なのか?
飛んでるアオサギは優雅で格好良い。しかし中身は剥げたオッサンだ。これは宮崎駿が短編で書いたバーバヤーガに似ている。塔の世界を熟知し、敵か味方かいまいち分からないアオサギは真人の案内役として存在感を出している。
このアオサギは高畑勲のことなのでは?と思い、ポイントを書いてみた。
①飛んでる姿が優雅で格好良いが中身はオッサンでバーバヤーガ(魔女)
➡仕事や教養への尊敬、中身はオッサンでこずるい所がある。
②塔の世界をよく知っていて、眞人(ハヤオ)を誘う。
➡高畑勲にアニメ業界へ誘われた経緯。
③クチバシの穴をふさいであげて、また飛べるようになる。
➡クチバシの穴はタバコの暗喩なのかも。宮崎駿は高畑勲のタバコを辞めるように勧告して、高畑勲はスッパリと辞めてしまった。その後、まもなく死去。少なくとも後悔の念が駿にはあったのかもしれない。好きなタバコくらい思う存分吸わせてやればよかったと。穴をふさげば、(タバコを吸わせれば、)また優雅に飛べるようになったのでは…。
④終盤のセリフ『友達じゃないか!』
➡高畑勲は宮崎駿を『友達』と言っていた。宮崎駿にとって高畑勲は年上の超えなきゃならない存在『ライバル』。心では『友達』と思っていても本人に直接言ったことはなかったのでは?
これはあくまで個人的な推測である。
父にありがとう、母にさようなら、そしてすべてのチルドレンにおめでとう
今回の考察でわかった事がある。それは庵野秀明作品のTV版エヴァンゲリオンの最終回との奇妙な一致である。
最終回に印象的に画面に映し出される『父にありがとう、母にさようなら、そしてすべてのチルドレンにおめでとう』という文言があるのだが、今回の『君たち』と見事に合致する。この場合の“すべてのチルドレン”とはもちろんジブリを含めたアニメ業界で働くクリエイター達の事だ。
宮崎駿と庵野秀明は師弟関係であり、ライバル関係でもある。対談で宮崎駿は
“『エヴァンゲリオン』みたいな正直な映画を作って、何もないことを証明してしまった”と評している。
『何もない』。ゼーレのシナリオや死海文書など、なんか意味ありげで本来なんの意味もない。外連味だけの構造。今回の『君たち』の積み木の描写と似ている。
現に、『君たち』も『エヴァンゲリオン』のように、考察が山のようにネットに出てきている。(本記事も含めて。)この考察の多さこそが庵野秀明作品との類似性の証拠だ。眞人=碇シンジと感じた人も少なからずいたのではないだろうか。
みんなこういう読み解く作品を作ったら、自分なりの考えを言いたくなるのだ。だから100人いたら100通りの解釈があっていい。
当初、エヴァに対して『なんか気に食わん』と切って捨てていた宮崎駿が自らの終局に立って、表現したのがこの『何もない』こと。期せずして弟子の表現(アンサー)に近いものができてしまう。皮肉ではあるが作品を作るってこういう事なのかも知れない。
まとめ
良い映画と面白い映画は違う。そして面白い映画にも種類があるFanとInterestingだ。
この映画は面白い(Interesting)映画だ。あーだこーだ言えるし、議題がある。駄目なところも含めて。
つまらないと切って捨てるのは思考停止だ。
そしてこの映画を経ての次回作を期待するのは酷なことなのだろうか?