ヒロトのポゴダンス
リンダリンダをカラオケで歌う時、激しくなるところで、ヒロトのポゴダンス(垂直にジャンプしてハードルを飛ぶような足の形をとるダンス)をやる。ほぼ全員必ず。
そして毎回お約束のようにテーブルの上のドリンクをこぼし、時には部屋を破壊してしまう。現在40代後半のおっさん世代あるあるだ。
ネットやYou Tubeがなかったのに、何故かみんなヒロトがこのダンスをしているのを知っていた。
うす〜い記憶をたどると、とんねるずのノリさんがテレビでやってたように感じるのだが、どうだったろうか?
とにかく、僕のパンクロックの記憶はここからはじまる。
ファションだけのパンク
小・中学校の時、パンクロック=ザ・ブルーハーツだった。男子は勿論、女子でさえも『TRAIN-TRAIN』や『リンダリンダ』は歌えたし、たとえその後に多種多様に分派していったとしても、僕らにとってザ・ブルーハーツは“パンクロックの始まりのバンド”だ。
そして高校に入る頃には、僕らの間でパンクロックはファッションの中に現れだした。70年代の流行だったパンクロックのファッションがリバイバルしだしたのだ。
90年代前半、ファション誌の特集記事で、いしだ壱成や武田真治のいわゆるフェミ男のブームがあり、そこからヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンが作り出したトラディショナルなパンクスタイルが紹介されていったように記憶している。
ガーゼシャツやダメージ加工したモヘアニットとかボンテージパンツ、ラバーソール。それこそ”チビT”なんかがそうだ。
昔から体型が細くない僕は、それらを羨望の眼差しで眺める程度だった。今考えると中々、青臭い。
どこが格好良かったのか今ではいまいち理解できないが、ピラミッド鋲のベルトやトリコカラーのリストバンドをするくらいには、かぶれていた。
その後パンクロックファッションはカジュアルダウンというか定番化していき、UNDERCOVER・MILKBOY・HYSTERIC GLAMOURなどのブランドがパンクロックやハードコアをストリートカジュアルに落とし込んでいった。
概念だけのパンク
ファッションのパンクリバイバルと同時に音楽もパンクロックを聴くようになった。王道のセックス・ピストルズだ。
高1の頃、セックス・ピストルズ唯一のアルバム『勝手にしやがれ』とセックス・ピストルズの映画サントラ『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』の2枚を中古販売店のレコファンで手に入れて、ヘビーローテーションしていた。なんだかとてつもなく格好良く感じた。とくにシド・ヴィシャスの『My way』や『C’Mon Everybody』は神々しいまでに格好良い。
ドキュメンタリー映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』は1980年に公開した作品だった。この映画をどうしても見たかった僕は近所のレンタルビデオ店を探しまくったが、どこにも見当たらなかった。『シド&ナンシー』はどこの店にもあるのだが…。
高2の秋頃に、たまたま目を通した”ぴあ”で東中野の映画館(BOX東中野。今ではポレポレ東中野)で1日だけ上映すると知り、学校帰りに制服のまま観に行った。
放課後のこっそり感と想い焦がれた映画に辿りつけた感動で、胸が弾んだのを覚えている。
映画はドキュメンタリーというよりも、プロモーション映画というか、ちょっとしたアイドル映画に近い感じで、映画的には少し残念だったのだが、その映画で語られるパンクロックの概念に僕はヤラれた。
何故、彼らが中指を立て、客につばを吐くのか。いかにして、演奏もろくにせず、客と殴り合いをして、パブリックエネミー(世間の敵)となっていったのか。
映画ではその模様を彼らの楽曲とともに描いている。パンクロックが完成するまでを。
タイトルの意味も日本語で“偉大なるロックンロール詐欺”ということも、その時はじめて知った。
“詐欺”。つまり騙しやフカシでパンクロックをイギリス中いや、世界中に認知させるという、仕掛け人でありマネージャーのマルコム・マクラーレンの野望が冒頭からユーモラスに語られる。本人の口から。
セックス・ピストルズのパフォーマンスはライブで暴れ、暴言を吐く。彼らが駄目なら駄目なほど、話題になる。演奏などは二の次。そしてこのプロモーションは体制を批判する歌詞と相まって、鬱屈した当時の若者達に見事にハマり、大人気となった。
イギリスチャートではイーグルスの名曲ホテルカルフォルニアを抜き、1位となった。
しかし、ピストルズの人気は予想以上に上がり過ぎ、アメリカツアーでろくに演奏もできない彼らの化けの皮が剥がれた。そのツアーでジョニー・ロットンはクビになり、シド・ビシャスはナンシーの殺害容疑で逮捕、のちにオーバードーズで死去する。
1978年サンフランシスコでのラストライブでジョニー・ロットンは言い放った『どうだい、騙された気分は?』と。
その時の彼の眼差しが今でも僕の心に刺さっている。
字面だけのパンク
活動期間1975年〜1977年の3年間、アルバム1枚、シングル4枚。
タイトでシンプルで格好良く、突きでた魅力的な態度。セックス・ピストルズは打ち上げ花火だった。若者のいろんなものを犠牲にして頭上に大きく光り輝く花火。切なく儚くて、力強い。
『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』、この映画を通過していないパンクロックはパンクロックではないとさえ当時の僕は思っていた。
少し頭でっかちになっていたと自分でも感じる。
そこにあらわれたのがメロコアだった。グリーン・デイの登場である。爽やかでメロディック。鬱々とした感覚は皆無。ピストルズの影響も感じさせつつも、西海岸の天気のように馬鹿っぽく明るい。新世代のパンクロックだ。
当時僕は、タワーレコードのフリーペーパー『bounce』を愛読していたのだが、その紙面で“ウッドストック94での泥だらけパフォーマンスで名を馳せたグリーン・デイ”という文言がやけに気になって、小遣いをためてCDを買った。
字面で妄想や期待が膨らむ。ネットで情報が得られない当時はよくこんなことがあった。
例えば、“頭に電球の着ぐるみを着けてのド変態パフォーマンス・レッドホットチリペッパーズ”だったり“バウンティハンター・ヒカル推薦のランシド”だったり、はたまた“大貫憲章のLONDON NITE”だったり。その字面だけで妄想や期待が膨らむのだ。
字面だけのパンクロック。
好きにライブにいけない、CDも買えない、金銭的余裕がない高校生は字面で想像するしかなかった。だが、その経験も今となっては自分の大切な宝物になっている。
1996年1月、パンクの補完
小学生時代に聴いていたザ・ブルーハーツの歌に『パンクロック』という歌があった。地味な印象の曲でアルバムを再生しても、飛ばしてしまうような曲。
僕パンク・ロックが好きだ
中途ハンパな気持ちじゃなくて
ああ、やさしいから好きなんだ
僕パンク・ロックが好きだ
ザ・ブルーハーツ/パンク・ロック
当時は深く意味も考えずに流して聴いていた。『そんな曲より、”流れ者”聴こう』って感じだ。
のちにこの歌詞の意味やニュアンスを理解した時、『ああ、そうだよな』って心が揺さぶられた。
抑圧と世間一般の価値基準などにぶつかるような環境にいたのなら、早いうちに理解できたのだろうが、僕が本当にこの歌詞が言っていることを理解できたのは、その後1996年の1月のグリーン・デイ日本初公演のライブでだった。高校3年生になっていた。
今は取り壊されてしまった晴海見本市会場(晴海イーストホール)。奇跡的に懸賞でライブのチケットが当たり、会場に入り込んだ僕はずっと興奮の中にいた。
ライブの前座はのちに日本のメロコアシーンのメインストリームを走りだすHi-STANDARD。新曲の『GROWING UP』のシングルCDを無料配布していた。
ハイスタはベイ・シティ・ローラーズのカバー曲『Saturday Night』でライブを終わらせて、場内は大盛り上がり。外国人ファンが多くきていたので、その場の一体感が生まれた。
グリーン・デイのステージは前座ステージのもっと奥にある巨大な倉庫の中であった。(記憶が曖昧)
ライブが始まると、場内は今まで経験したことのない歓声に包まれ、ダイブとモッシュの嵐になった。
ダイブはなんとなく知っていたがモッシュってこんな感じなんだとその時はじめて知ったし、大柄な外国人のオッサンにダイブしたいから投げてくれとかジェスチャーで伝えて、ダイブする同年代くらいの若い子達もいた。初めてのライブ体験が連続して起きて、興奮状態が続いた。
自分の好きな『Welcome to paradise』や『Geek Stink Breath』をなんとなくシンガロングしてみたり、『Basket case』でダイブする子の手助けしたりした。そして絶えず飛び跳ねていた。
終始ピースな雰囲気に包まれて、みんなが暴れる。祝祭のような空間、これもパンクロック。
アンコールが終わり、ライブが終了して、ホールに人がほとんどいなくなるまで僕はその場で余韻に浸っていた。
“パンクロックは優しい”そう思った。いろんなパンクロックを通過して最後は体験に帰結した。そして原点のザ・ブルーハーツに帰っていく。
かくして僕のパンクロックはその時に補完された。
ザ・ブルーハーツ、セックス・ピストルズ、グリーン・デイ。それぞれに思い入れがあり、大好きなパンクロックバンドだ。彼らの楽曲を聴くとき、若かった自分自身のことも思い出す。